合理性の先にあるもの

皆さま、こんにちは、そして、こんばんは。

中小企業診断士の菅野です。

今日のテーマは、「合理性の先にあるもの」です。

ぜひ、お付き合いください。


前回(2/19)のブログでは、デヴィッド・R・ホーキンズ博士の著書「パワーか、フォースか」についてご紹介いたしました。

 

今日は、博士が実証した意識マップの中で、「理性」という部分にフォーカスしたいと思います。

なぜなら、理性は「高い意識レベル」であるものではありますが、「その先に進むための障害」にもなり得るものだからです。この点について、考えてみたいと思います。

 

以下は、同書に書かれている「理性」の説明です。


  • 低いレベルの感情を超越できると、知性と合理性が現れてきます。
  • 理性は、複雑で大量なデータを扱うことができ、また迅速に正しい決定をすることができます。
  • 関係の複雑さや、深さのレベル、微妙な違いを識別し、理解することができます。
  • そして、抽象的な概念(コンセプト)を活用する方が、具体的な解決手段よりも重要だと分かってきます。
  • また、さまざまな科学や思想に対する理解力や読解力、さらには、インスピレーションを概念化し言語化する能力が、著しく増大します。
  • このレベルでは知識と教育が「財産」として追加されます。理解と情報は達成のメインツールとなり、その状態から、【400】レベルであることが証明されます。
  • このレベルの短所は、概念や理論についつい夢中になり、「木を見て森を見ず」の状態になってしまうことです。
  • つまり現象そのものや、それが示す意味の違いを厳密に識別することにとらわれたり、「客観的な世界(外界)」と「主観的な世界(内面)」の間の、目に見えない因果関係を、正しく理解することを制限してしまいます。
  • このレベルでは結局、基本的なポイントを逃してしまいます。
  • 理性を働かせること自体が「最終ゴール」になる傾向があります。
  • 「理性」には限界があり、物事の本質や複雑な問題の真髄を見抜く力はありません。
  • 「理性」だけでは真実を見いだすことはできません。
  • 理性は莫大な量のデータに裏付けを生み出しますが、そのデータと実際に起きる現象との間の矛盾を解決する能力に欠けます。
  • 「理性」は、論理的な方法論によって支配されている機械的(非人間的)な世界では高い効果がありますが、人間および人間関係の問題を解決する能力はありません。
  • ハーバード大学などのMBA(経営学修士)取得者が、価値観が異なる複数の人間が介在するビジネスにおいて、必ずしも成果をあげるとは限らないという現象も、この「理性」の限界を示しています。
  • また、「理性」は、人の意識が、より高いレベルへ進化することに対して最も大きな障害になります。

ちなみに、現在、筆者は「経営支援(コンサルティング)」を仕事としています。

この仕事は、データ収集・分析、問題の原因特定、課題設定、解決策立案等の作業を行いますので、常に理性を働かさなければなりません。

 

しかしながら、理性だけでは解決できない問題にぶつかることがあります。つまり、事実の分析だけでは、物事の本質や複雑な問題の真髄を見抜くことに限界があることに気づくのです。

 

この問題を解決するためには何が必要なのか・・・頭で考えても「解決策」を見出すことが困難でした。

様々な現場に出かけていき、その現場で活動する人たちと同じ体験することによって解決策が見つかるのではないかと考え、そのような行動していた時期もありました。

 

でも、今考えるとそれは「本質的なこと」ではありませんでした。

なので、意識マップの「次のレベル」が何であるのか、ここをしっかりと理解したうえで、本質的なことを探す方向へと変わりました。

 

では、意識マップの次のレベルとは一体何でしょうか。

この部分については、合理性を超えた部分を、「理解」するのではなく、「体感」することが大切と感じています。

 

では、デヴィッド・R・ホーキンズ博士が解明した次のレベルとは何か・・・ここで、フォーカスしてみたいと思います。


結論から言いますと、意識レベル「理性」の次の段階は「愛」です。

「愛」の意識レベル(エネルギーレベル) は500ですあり、「理性」の意識レベルが400ですから、理性の意識レベルより100高い状態になります。

 

なお、数値は十進数ではなく、対数を表しているので、レベル500はレベル250の二倍を意味するのではなく、10の500乗のパワーを示しています。したがって、レベルが100あがるということは、10の400乗から10の500乗へとエネルギーレベルが変わるということになります。

※ちなみに、10の100乗は、1グーゴル (googol) と呼ばれ、1の後に0が100個連なった101桁の整数を表します。日本では「無量大数」という単位がありますが、これは10の68乗を表しています。


さて、それでは本題に入りましょう。

以下、同書から引用させて頂きます。


まず、一般的な社会で定義される「愛」は、ここでいう「愛」とは違うものであるということを認識する必要があります。

 

一般的に「愛」と呼ばれているものは、肉体的な魅力、所有欲や嗜好など、目新しさが交わった激しい感情的な状態をいいます。

しかしながら、それはとても壊れやすくて、また変わりやすく、満ちては引く潮のようなものです。

 

ひとたびフラストレーション(欲求不満)が起きると、「一般的な愛」は仮面を外し、それが本来持っていた怒りや依存関係が明らかになることがよくあります。「一般的な愛」が、落胆や失望や憎悪に変わることは、よくあることです。

 

しかし、それは、ここでいう「愛」ではなくセンチメンタリズム(感傷的愛・依存的愛)のことです。そのような「一般的な愛」はここでいう本当の愛ではなく、「プライド」や「欲望」や「恐怖」という意識から生じた、単なる「感情」でしかありません。

 

【500】レベルでの、内面から創造される無条件かつ永久的な「愛」は、どんなことがあっても揺るぎません。なぜなら、その源泉が、まったく外部の事象に起因していないからです。

 

「愛」は心の持ち方です。それはすべてのものを、許し、養うサポート的なあり方です。「愛」を発するのは、理性からでも頭からでもありません。「愛」はハートから発します。その動機の純粋さゆえに、他の人たちの意識エネルギーをも引き上げます。「愛」はかなり大きなパワーを持っています。

 

このレベルに達すると、物事の本質を識別する能力が優れてきます。問題の真髄が関心の中心となります。理性(逐次的な論理思考)を使わずとも、問題の全体像を瞬時に認識する能力が生まれます。

 

特に時間とプロセスに対してのとらえ方が、それ未満のレベルより大きく拡大します。「理性」は細部だけを扱いますが、「愛」は全体を扱います。

 

この能力は、よく直観に関係しているとみなされています。その理由は、連続して現れる事象を頭の中で逐次的に解読するのではなく、事象が示すパターンとか象徴などを、全体の関係性として、瞬間に、一意に把握するからです。直観によって把握される理解は、一見、抽象的なものだとみなされていますが、実際にはかなり具体的なものです。

 

「愛」は立場にとらわれないし、区別をしないので、その結果、グローバルに広がります。どんな境界もそこにはもはや存在しないので、「他と一つになる」ことが可能です。したがって「愛」は包括的であり、「自分」という意識の範囲が、自己を超えて拡大していきます。

 

「愛」は生きることのすばらしさに焦点を合わせて、ポジティブさを増大させます。そして、ネガティブなものを、攻撃することよりも、それを認め解放することによって、溶かし消滅させます。


以上が、同書の内容です。

 

私見ですが「愛」は、頭で理解しようとしても、それは無理な話だということに気づかされたことがあります。

また、現代社会は物質的価値観が支配する世界ですから「愛」のレベルに進むには、現実世界とのギャップをどうするかといったハードルがあります。

 

このハードルは、経済合理性を重視せざるを得ない組織のトップなど、経済的な重責を担う人間にはとても重く、「愛」をあきらめて「経済合理性」で生きざるを得ないと感じることもあると思います。

しかし、多くの人たちの幸せにために経営する場合、そのハードルを乗り越えることが大切なのかもしれません。

 

では、そのハードルを乗り越えるためには何が必要なのでしょうか。

 

ネットをみると、座禅、 修行、勤行など、様々な自己鍛錬の方法が出てきます。

また、募金やボランティアなど、徳を積むことについても書かれています。

さらに、「誰かのために祈る」という行為は、あまり目立たないけれど、とても重要だと感じています。

 

世の中には困っている人がたくさんいます。でも、自分一人の力ではどうすることもできません。

このような無力感とでもいいましょうか、想いがあっても「自分は何もできない」ということがわかると、自然界の大いなる力の存在に委ねるしかないことに気づかされます。

 

そして、困っている人や苦しむ人、悲しむ人をなぐさめる祈りや、愛をもって社会に影響を与える人の働きを強める祈りなどは、愛や喜びにあふれた平和な社会のために祈ることは、大いなる存在の意にかなうことだと思います。

なので、誰かのために祈ることは、愛の心をはぐくむのに大切なことだと思うのです。


中小企業診断士という「合理性」重視の職業に就く自分が、なぜ、このようなコラムを書いているのでしょう。

 

それは「問題の本質」を追及していくと、どうしても「愛」の部分に踏み込ざるを得ないと感じることが少なくないためです。なので、次回以降も、このことを深堀していこうと思います。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

皆々様の健康と幸せを心よりお祈りいたします。